桃原農園創業、松山王子「尚順(しょうじゅん)」の業績
◆松山王子、尚順の業績
桃原農園の歴史は、琉球国最後の国王、尚泰王の最後の王子、松山王子・松山御殿(まちやまうどぅん)と呼ばれた創業者、尚順の業績を抜きにして語ることはできない。
琉球処分に伴い、父とともに7歳で上京した尚順は、明治25年(1892年)、20歳の時に帰郷。
翌年の明治26年(1893年)には、太田朝敷、護得久朝惟、豊見城盛和、高嶺朝光らとともに沖縄最初の新聞である「琉球新報」を創刊し、明治32年(1899年)には、沖縄銀行を設立することとなる。
他にも沖縄港運を設立するなど、戦前の沖縄における基幹産業の発展に大きく寄与した。
◆創業期の桃原農園
尚順は、琉球新報の設立を始め幅広く事業を展開し、沖縄の発展に取り組んできたが、その中でも特に力を入れたのが、「緑」であった。
大正13年(1924年)、沖縄県で初の造園業を創設した尚順は、
「沖縄の恵まれた気候・風土を活用した観葉植物・果物・花を栽培すれば一大産業になる」
という持論を掲げ、首里桃原町の自宅を始め、沖縄各地にあった農場に、国内外の熱帯果樹や香辛料、観賞用の植物などの収集・研究を進めた。
昭和5年(1930年)には、沖縄で初めてパイナップルを栽培するなど、その研究内容の豊かさに見学者が増え、桃原町の自宅「松山御殿」を一般に開放し、町名を取って「桃原農園」としたのが、現在の桃原農園という名称の始まりである。
桃原農園の歴史について
- 創業期 〜尚順の業績〜
- 復興期 〜終戦、事業の再興〜
- 高度成長期 〜事業拡大へ〜
- 民間投資の拡大と国際化
- 時代背景の変化と
環境社会に向けて〜










