瓦礫の中からの再興。尚詮(しょうせん)の業績
◆桃原農園の再出発
昭和23年(1948年)秋、本土での学業を終え帰郷した尚順の六男、尚詮が、灰燼に帰した桃原農園の復興に着手。3年後の昭和26年(1951年)12月には、法人組織(合資会社桃原農園)として桃原農園は再出発を果たす。
戦後の様相をそのまま残していた沖縄の中で、畑を耕し、樹の苗や草花を植え、種子をまいて育てていた尚詮たちを見て、周囲の人々は変人あつかいをすることもあった。
そのような時代であったが、尚詮は首里の邸内に残っていた焼け焦げたフクギ、ガジュマル、アコウなどの樹木を整理するとともに、沖縄で初めて「貸鉢業」を開始した。
当時の商品は、ドラセナやヘゴにオオタニワタリを着生させたものが中心で、適当な鉢などがない時代だったので、ビールの木箱に枠をつけ、ペンキを塗って代用するなどしていた。
アメリカ統治下にあった沖縄では、官公庁や民間の造園・施工工事はまだまだ少ない時代であったため、嘉手納飛行場や普天間飛行場、上之屋住宅地域の緑化を手掛けるなど、米軍工事へと進出することで、桃原農園はその地歩を固めることとなった。
◆緑化の萌芽とともに歩む桃原農園
尚詮は昭和27年(1952年)頃より、東南アジア、ハワイなどを旅行し、様々な植物の苗などを持ち帰り植栽を行った。
この収集から、伊豆味農園(現・伊豆味農場)で日本初のマカダミアナッツを結実させるなど、様々な成果を残した。
この頃には、徐々にではありながらも、沖縄でも緑化の萌芽が見られるようになる。琉球政府時代には、海中公園、発電所、石油基地、米軍保養地の奥間ビーチ、国際通りの植栽・植樹など、当時の公共工事をいち早く手掛け、桃原農園は戦後の沖縄緑化に尽力をすることとなった。
桃原農園の歴史について
- 創業期 〜尚順の業績〜
- 復興期 〜終戦、事業の再興〜
- 高度成長期 〜事業拡大へ〜
- 民間投資の拡大と国際化
- 時代背景の変化と
環境社会に向けて〜










