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桃原農園の歴史

沖縄における総合造園建設業のパイオニア、桃原農園には長い歴史があります。沖縄とともに歩んできた 、桃原農園の歴史をご覧ください。

創業期 ~尚順の業績~

桃原農園創業、松山王子「尚順(しょうじゅん)」の業績

松山王子、尚順の業績

創業者 尚順(松山王子)

桃原農園の歴史は、琉球国最後の国王、尚泰王の最後の王子、松山王子・松山御殿(まちやまうどぅん)と呼ばれた創業者、尚順の業績を抜きにして語ることはできない。

琉球処分に伴い、父とともに7歳で上京した尚順は、明治25年(1892年)、20歳の時に帰郷。

翌年の明治26年(1893年)には、太田朝敷、護得久朝惟、豊見城盛和、高嶺朝光らとともに沖縄最初の新聞である「琉球新報」を創刊し、明治32年(1899年)には、沖縄銀行を設立することとなる。

他にも沖縄港運を設立するなど、戦前の沖縄における基幹産業の発展に大きく寄与した。

創業期の桃原農園

創業当時の桃原農園の様子

尚順は、琉球新報の設立を始め幅広く事業を展開し、沖縄の発展に取り組んできたが、その中でも特に力を入れたのが、「緑」であった。

大正13年(1924年)、沖縄県で初の造園業を創設した尚順は、「沖縄の恵まれた気候・風土を活用した観葉植物・果物・花を栽培すれば一大産業になる」という持論を掲げ、首里桃原町の自宅を始め、沖縄各地にあった農場に、国内外の熱帯果樹や香辛料、観賞用の植物などの収集・研究を進めた。

昭和5年(1930年)には、沖縄で初めてパイナップルを栽培するなど、その研究内容の豊かさに見学者が増え、桃原町の自宅「松山御殿」を一般に開放し、町名を取って「桃原農園」としたのが、現在の桃原農園という名称の始まりである。

旧桃原農園首里本園之図

創業当時の桃原農園の様子

復興期 ~終戦、事業の再興~

瓦礫の中からの再興。尚詮(しょうせん)の業績

桃原農園の再出発

昭和23年(1948年)秋、本土での学業を終え帰郷した尚順の六男、尚詮が、灰燼に帰した桃原農園の復興に着手。3年後の昭和26年(1951年)12月には、法人組織(合資会社桃原農園)として桃原農園は再出発を果たす。

戦後の様相をそのまま残していた沖縄の中で、畑を耕し、樹の苗や草花を植え、種子をまいて育てていた尚詮たちを見て、周囲の人々は変人あつかいをすることもあった。

そのような時代であったが、尚詮は首里の邸内に残っていた焼け焦げたフクギ、ガジュマル、アコウなどの樹木を整理するとともに、沖縄で初めて「貸鉢業」を開始した。

アメリカ統治下にあった沖縄では、官公庁や民間の造園・施工工事はまだまだ少ない時代であったため、嘉手納飛行場や普天間飛行場、上之屋住宅地域の緑化を手掛けるなど、米軍工事へと進出することで、桃原農園はその地歩を固めることとなった。

 

緑化の萌芽とともに歩む桃原農園

尚詮は昭和27年(1952年)頃より、東南アジア、ハワイなどを旅行し、様々な植物の苗などを持ち帰り植栽を行った。

この収集から、伊豆味農園(現・伊豆味農場)で日本初のマカダミアナッツを結実させるなど、様々な成果を残した。

この頃には、徐々にではありながらも、沖縄でも緑化の萌芽が見られるようになる。琉球政府時代には、海中公園、発電所、石油基地、米軍保養地の奥間ビーチ、国際通りの植栽・植樹など、当時の公共工事をいち早く手掛け、桃原農園は戦後の沖縄緑化に尽力をすることとなった。

高度成長期 ~事業拡大へ~

本土復帰、高度経済成長期

桃原農園の事業の広がり

昭和47年(1972年)5月の本土復帰(沖縄返還)と、その後の沖縄国際海洋博覧会(1975〜76年)を契機として、時は高度経済成長期末期ながら、沖縄でも社会資本の充実が進み、同時に、社会の「緑化」への理解も一段と進んだ。

沖縄海洋博を始めとして、那覇空港、下地島空港、国道58号線における読谷ー嘉手納間のココヤシ植栽など、多くの大規模な公共工事を手掛けるようになり、桃原農園の事業分野は広がりを見せ始めた。

 

新たなる展開

フラワーショップトーバル安里本店

昭和50年(1975年)7月、沖縄県那覇市安里に安里フラワービルを新築。

当時、沖縄ではまだめずらしかったフラワーショップ(フラワーショップ安里本店)の経営を開始した。

これまでの公共工事・民間工事だけではなく、一般消費者向けに商品を提供する今までとは異なるチャネルを持ったことは、桃原農園にとって新たな一歩だった。

 

民間投資の拡大と国際化

民間工事への事業拡大、国際化へ

リゾート地、沖縄の飛躍とともに

首里トロピカルガーデン「松山御殿」

本土復帰(沖縄返還)以降、恵まれた自然景観と独特な文化遺産などを有する沖縄は、国内有数の観光・リゾート地として人気が高まってきた。

昭和59年(1984年)、沖縄の年間入域観光客数が200万人を超えたのをきっかけに、民間投資による海浜リゾート施設の整備事業が増加してくるようになった。

そうした沖縄に吹く観光ブームという追い風と、桃原農園がこれまでに沖縄で築きあげてきた実績と確かな品質が結実した結果、事業領域・規模ともに新たな飛躍の時を迎えた。

リゾート施設への進出と国際化

昭和57年(1982年)の万座ビーチリゾートホテルを始めとして、沖縄残波岬ロイヤル・ホテル、サンマリーナホテル、ホテル日航アリビラなど、沖縄を代表するリゾートホテルの造園・緑化を数多く手掛け、平成2年(1990年)には、サザンリンクスゴルフ場の植栽工事を行うなど、スポーツ・レジャー施設関係の民間工事にも積極的に進出することとなった。

他にも、HOTEL日航サイパンの造園工事など、海外の事業分野にも参入するようになり、桃原農園は、国際的な事業にも携わる沖縄有数の総合造園建設業として、ますます活動領域を広げることとなった。

時代背景の変化と環境社会に向けて

変貌を遂げる社会背景。環境社会の時代へ

民営化の流れにおける桃原農園

奥武山総合運動公園、恩納村立赤間運動公園

平成10年(1998年)3月、桃原農園は合資会社から株式会社と事業形態を発展させる。

公営組織の法人化・民営化の一環として施行された、地方自治法改正により「指定管理者制度」が導入され、管理・運営が地方公共団体や外郭団体などに任されていた公共施設を、民間企業が代行できるようになった。

これにより、平成18年4月1日から奥武山総合運動公園(沖縄県)の管理・運営を、桃原農園を含むTKSF指定管理共同企業体が代行するようになった。

また、平成20年(2008年)4月、恩納村立赤間運動公園野球場においても、桃原農園を含むTUK指定管理共同企業体が、管理・運営を代行するようになった。

 

環境社会への貢献

ハイビスカス

自然環境と人間社会との相互的関係が重視されるいま、魅力ある都市の構築に、緑化空間は欠かすことのできないものとなっている。

従来の造園土木工事を始めに、グリーンメンテナンス、観葉植物リース・レンタル、生花ディスプレイによる緑化空間の創出、フラワーショップの展開など、沖縄の「緑」の発展に積極的に取り組むことで、桃原農園は環境社会への役割を果たしていこうとしている。

これまで沖縄の緑化に貢献してきたという自負とともに、沖縄、ひいては地球環境に寄与していく現代が、桃原農園のこれまでの蓄積の真価が問われる時といえよう。

<参考文献>
「松山御殿物語-明治・大正・昭和の松山御殿の記録」(「松山御殿物語」刊行会編)
「桃原農園 トロピカルガーデンの歴史」

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